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西今宿

西今宿の歴史と文化の散策会のご報告

開催日:8月8日(日)
参加者:25人
散策時間:午前7時30分から午前9時終了

戦国期、織田信雄の分限帳にも「いまじゅく村」とあり、歴史ある地域であると再確認できました。

西今宿を言い表すと

新居屋川(福田川)と五条川にはさまれた地区で、集落は五条川の右岸に位置し、鎌倉街道の発展とともに町と化し、宿場町の延長線上にあった村である。戦国期、織田信雄の分限帳にも「いまじゅく村」とあり宿場が廃れても村としてはしっかり存続していた。

集落の形成は、街道筋からはじまり、西に発展した。集落の南北あるいは周辺に畑地が点在し、その周りは全て田んぼ。「尾張徇行記(じゅんこうき:江戸時代中期の書物)」によれば、集落は四区に分かれるとある。

「❶領家」「➋南屋敷」「❸北屋敷」「❹宿屋敷」、今とは全く違う呼び名であるが、❹は鎌倉街道筋の民家と考えられる。➋と❸を隔てるものは何か? 恐らく宝満寺のすぐ北の東西の道(市民病院の前に出る道)、この道を境とした南北の集落でいいのではないか。

江戸時代、村は米の収量も多く、田んぼを他村に貸し出してもいる。また蔬菜栽培(茄子、瓜、西瓜、大根)も盛んで下小田井の市に売り出した。

地区名が西今宿になったのは明治14年以降、この時、栄地区は東今宿村となった。明治22年に白鷹村(清須市上条、土田と同村)の一地区に、39年に甚目寺村西今宿となって今に至る。

街道

●藤堂街道

西今宿から甚目寺観音につながる斜めの道。この道は佐屋街道の西条(大治町)から北上し、甚目寺観音を通って、清洲宿につながる道で(Google Mapでは信長街道と表記)、安濃津城主(三重県津市)の藤堂候が小牧方面に向かう際に利用した道で「藤堂街道」と呼ばれた。

徇行記には、「土人藤堂街道と唱えり。今においては山田奉行など通行あり、いずれも小径ゆえに候伯の往来はなりがたし、その家臣はたまたま通行するものあるよし…」とある。地域によっては「小牧街道」とも称されたようである。

この斜めの道、あえて甚目寺観音へ直結させるところが興味深い。津島神社への参拝、あるいは佐屋街道で西へ向かう人々が利用した抜け道である。

●鎌倉街道

古代から近世にかけ、京と鎌倉を結んだ幹線通路。幻の街道ともいわれ、現在、その道筋を正確に辿ることは難しい。街道筋の状況としては自然堤防など小高い場所を通り、低湿地帯などを避ける傾向にあるらしい。また周辺には古い神社や仏閣が残っていることが多いという。

西今宿内を南北に貫くこの道は。清洲城から土田~上条を経て西今宿地内を通り、上萱津へ抜ける。コーワにより道は分断されてはいるが、大部分が今もそのまま残ることは貴重、西今宿の遺産である。ちなみに江戸時代の村絵図には、すでに「鎌倉街道」の表記はない。あま市内に限ったことであるが、鎌倉街道沿いに建つ寺院をみると圧倒的に日蓮宗寺院が多い。

信仰

●宝満寺(日蓮宗)

妙勝寺(上萱津)の末寺。始まりは「見立坊」という僧が金山荒神社の堂守をしており、享保9年(1724年)その「見立坊」の願いで津島村の円蔵坊の保護を受け「宝満寺」となり、さらに妙勝寺27世日繁上人に請い開基された寺とある。日繁上人は享保14年に入寂。寛文期(1661年~)には「堂守の屋敷地…、無住で寺号なし」とあることからも、宝満寺の成立は江戸中期で良いのだろう。境内地に稲荷堂があるが、江戸時代の記録にはない。

〇西今宿会所

真宗大谷派。創建は不詳。戦前の記録によれば、地区内には真宗75戸、日蓮宗30戸と真
宗門徒が多く、地区内に寺院がないため何かと不便をしていた。江戸時代後期に個人宅に会所を作った。平成30年くらいに無くなった。

●金山神社

創建は不明、、古くから祀られる神社。祭神は金山彦命。江戸時代は金山荒神社と称す。「甚目寺町史」には清洲城主である斯波氏の武器を製造する鍛冶職人がここに移住し、勧請した社とある。同名の神社は全国にも存在するが、一番近い場所で熱田にある。ここは熱田神宮の鍛冶職である尾崎氏が個人的にお祀りしていたものを地域で祀るようになったとある。さらに室町期から江戸初期までは金山鍔の製造地として知られた。全国的にみても火の神であり、鍛冶職人とのつながりがあるようだ。→→ここは清洲城域には含まれていない。武器の製造を城外で行ったのか⁉ いくつか疑問は残るところ。本来は荒神を祀ったのでは…?

●竹生島神社

古くから祀られる。江戸時代の記録(徇行記)には弁材天祠とあるのみで、いつ竹生島社になったのか不明。祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。竹生島は琵琶湖に浮かぶ島のひとつ、同社は江戸時代以前、竹生島弁財天社と呼ばれていた。ちなみに村絵図には弁天としか明記されていない。

小夜姫祭…甚目寺町史によれば、祭りは40年ごとの5月18日に同社にて行った。内容は❶湖底に棲む大蛇があばれ湖水を荒らして人々を苦しめた。➋大蛇を静めるために毎年人身御供を出した。❸ある年、長者の一人娘である小夜姫が人身御供の鬮にあたった。❹修業僧が来て、法華経を渡した。❺御供の当日、湖水より現れ出た大蛇に法華経をかざし、大蛇を撃退する。物語の最後に、大蛇は竹生島弁財天の実の娘である壷坂観音となって成就する。要は法華経の功徳を、人形(姫と蛇))を使って教えた。

〇秋葉社

鳥居、舞殿、本殿を備えた立派な社。村絵図を見るとここは「子新田(ねしんでん)」と書かれている。これは何らかの理由で空き地になった土地を農地にしたということ。子とは、干支の「ね」を意味し、新田開発した年が子年であったことを意味する。これも尾張徇行記の今宿村の項にあり、ずばり宝暦6年(1756年)である。その後の経緯は分からないが、秋葉社創建は明治期以降ではないか。

〇辻地蔵

4体存在する。秋葉社地内の安永7年(1778年)子供連中拾人。残りの3体は集落ごとに立つ。北から「宿地蔵」…文字は判読できず。「北屋敷地蔵」…個人でお祀りしたもので弘化2年(1845年)建立。「金山社前の辻地蔵」…安永7年(1778年)念仏講中。

〇馬頭観音

鎌倉街道と新居屋道(市民病院の前の道)の十字路にある。判読不明ながらも、街道を通る人々の安全を祈願して建立されたものであろうか。

※●はある程度資料がある。〇資料無く聞き取り中心
→今回は刷毛産業、源氏節、清洲飛行場建設、人物については割愛しているので、また機会を得てその(2)を作成してみたいと思いいます。

作成(文責)…美和歴史民俗資料館